湊川神社についてのサイト

湊川神社の概要

楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。その墓は長らく荒廃していたが、元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。1867年(慶応3年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。 境内には、楠公にゆかりのあるものを納めた宝物殿や能楽堂である神能殿や結婚式などのための楠公会館などがある。また兵庫県内の神社の事務を管轄する兵庫県神社庁の事務所がある。 祭神 [編集] * 主祭神:贈正一位橘朝臣正成公 * 配祀神: o 贈従二位楠木正行卿 o 贈正三位楠木正季卿 o 菊池武吉命・江田高次命・伊藤義知命 o 箕浦朝房命・岡田友治命・矢尾正春命 o 和田正隆命・神宮寺正師命・橋本正員命 o 冨田正武命・恵美正遠命・河原正次命 o 宇佐美正安命・三石行隆命・安西正光命 o 南江正忠命 * 本殿合祀:摂社甘南備神社(祭神:大楠公御夫人滋子刀自命) (祭神名の表記は『湊川神社誌』による) 主祭神である楠木正成は、河内に本拠地をおいたいわゆる武将で、1331年(元弘1年/元徳3年)に後醍醐天皇に応じて挙兵し、鎌倉幕府倒幕に貢献する。建武の新政後の足利尊氏の反乱において、九州から京都に向かう尊氏を摂津国湊川の地で迎え打ち、新田義貞らとともに戦うが、1336年(延元1年/建武3年)5月25日(新暦7月12日)に敗退し自刃する。大楠公と呼ばれる。 配祀神の楠木正行は主祭神・楠木正成の子息である。正成が大楠公と呼ばれるのに対して、楠木正行は小楠公と呼ばれる。正行は大楠公の死後も南朝側として戦い、河内の四條畷の戦いで破れて自刃。1890年(明治23年)4月には正行を主祭神とする四條畷神社が創建されている。 配祀神の楠木正季は主祭神・楠木正成の弟である。兄とともに湊川の戦で敗れる。『太平記』では、兄と刺し違えて死んだとされ、死に際に「七生滅敵」と誓ったと描かれている。 『太平記』では、正成正季の兄弟とともに一族16名も自刃したとしており、これら16柱の神霊も正季らと供に配祀されている。 そのうち菊池武吉は菊池武時の七男で、菊池武重の弟である。兄とともに新田義貞の軍で戦っていたが、楠木正成らの自刃の場に居合わせためにともに自刃したという。1924年(大正13年)3月17日、従三位が贈られている。 社名 [編集] 「湊川神社」の社名は、鎮座地の地名である湊川に由来するものである。 正成を祀る神社は一般に「楠社」とか「楠公社」と呼ばれていたので、「湊川神社」の社名が決まるまでは、この神社も「楠社」と呼ばれていた。 社名の候補としては、「大楠霊神社」案と「南木神社」案と「湊川神社」案があった。「大楠霊神社(おおくすたまじんじゃ)」案は創建が公式に発表される前の1868年(明治1年)3月末に平田派国学者の矢野玄道が提案したもので、すぐに政府の内評を得ている。矢野玄道によると、近江国に「大楠神社」なる神社が既にあるので、それを真似てさらに「霊」の字を追加したという。「南木神社(なみきじんじゃ)」案は堺県知事小河一敏が1870年(明治3年)4月に提案したもので、やはり同名の神社が存在することによる。その神社の伝承に寄れば、この社号は後醍醐天皇の勅により与えられたものだとされている。当時としては天皇が定めたということは大きな意味を持つことであり、これによって小河知事は「南木神社」案を強く主張している。「湊川神社」案は、神祇官官吏の八木雕の提案によるもので、地名をつけることで覚えやすくなるだろうとしている。 以上の三つの案があったが、政府は八木の「湊川神社」案を採用した。八木案採用の理由は定かではないが、矢野玄道の「大楠霊神社」案が廃案になったのは、近代化する国家の動きに反して復古を唱える平田派が同時期に維新政府内より排除されたことと関連があると思われる。あるいは国家の創建によるものなので、他の正成を祀る神社と同様の名前を付けず、差異を出そうとしたのかもしれない。湊川神社に続いて建てられた人物顕彰神社の多くも地名を社名につけるこの例を踏襲することとなる。 歴史 [編集] 幕末、維新志士たちは、武家政権を倒し天皇親政を実現しようとした南朝の忠臣らを自らに重ね、彼らを理想とした。特に楠木正成はその忠臣の筆頭に挙げられ、多くの維新志士が彼の崇拝者となり、その祭祀を行なった。明治維新の意義は、公的には神武創業に回帰するという意味が岩倉具視らの強い主張により与えられたが、実際の倒幕運動は神武創業というよりはむしろ建武の新政を理想として行なわれたものであった。それは江戸時代に儒学の興隆によって興った南朝正統論に起源するものである。 明治維新が実現すると、楠木正成は、皇室に忠義を尽くした第一の功臣として顕彰され、神社が建てられることとなった。神社の創建には薩摩藩、尾張藩、水戸藩などが主導権を争ったが、最終的に神社は国家が祀るものとして、政府が主導して建てられた。 湊川神社の創建は、これに続く南朝関連の人物を祀る神社創建の嚆矢となり、別格官幣社に代表される、功績のあった人物を神社に祀る風習のさきがけとなるなど、近代神社史上、無視できない重要な位置を占めることとなる。 また、楠木正成のエピソードに基づく「七生報国」の語は戦時中のスローガンとなった。戦災で社殿を焼失したが、戦後復興している。 創建前史 [編集] 楠木正成の英雄化 [編集] 楠公の墓 [編集] 現在の社地に楠木正成を祀る施設を設け、祭祀を行なうという意味では、徳川光圀の楠木正成墓碑の建立が現在の湊川神社の起源といえる。ただ光圀の建碑にいたるまでにも、紆余曲折があった。 楠木正成の墓所が記録に現れるのは、豊臣秀吉の時代である。文禄年間の片桐且元による検地の記録に田の中に東西四間南北六間二十四坪の除地(免税地)として楠木正成の墓所がみえている。それ以前に、この墓所に関する記録は無く、首級は家族に返却され、河内の観心寺(現大阪府河内長野市)に葬られたとされる。 江戸時代になって、その墓所の地は尼崎藩の管轄となった。尼崎藩青山家の2代青山幸利の時代になって、墓所にはようやく五輪塔が建てられた。青山幸利は、1646年(正保3年)になって初めて領地に着いて、藩下の八部郡坂本村に埋塚なるものがあることを知った。調査したところ、楠木正成の墓だということが判明したので、その塚に梅の木と松の木を植えて、小さな五輪塔を建てて供養したという。青山幸利の家臣には鵜飼石斎という南朝正統論の儒学者がおり、その影響をうけたものかもしれない。 筑前福岡藩の学者貝原益軒は、1664年(寛文4年)京都からの帰りに兵庫の福岡藩の本陣であった絵屋右近衛門の宿に偶然泊まったとき、楠木正成の墓にお参りした。しかし、田んぼの中に梅と松の木があるのみで、いまだ碑石も建てられていない荒れた状態に驚嘆している。そこで益軒は自ら建碑することを思い立った。その場で碑文を撰して、これを石に彫って碑を建てるように絵屋右近衛門に頼んだ。しかし、福岡に帰ってからのち思い直して、中止することとなった。楠公の建碑は自分のような卑賤の者のするところではないし、自分の藩地でない他地に建碑するのは僭越であるというのがその理由だった。 ただ奇妙なのは貝原益軒の記録(『楠公墓記』)には青山幸利が建てた五輪塔のことは現れず、また1679年(延宝7年)に水戸の学者今井弘済が訪れたときの記録にも、五輪塔のことは触れられていない。しかし、確かに1674年(延宝2年)の諏訪兼郷の記録には5尺に満たない石塔があったと書かれ、1680年(延宝8年)の『福原鬢鏡』には楠公墓の挿絵として五輪塔が書かれている。考えられるのは、貝原益軒が訪れたときにも五輪塔はあったのだが、おそらく五輪塔に供養対象者の銘が無く、誰を供養するためのものがはっきりとしなかったのだろう。 「水戸黄門」として知られる徳川光圀は、若い頃に『伯夷伝』を読んで衝撃的な感銘を受け、人の心をうつのは史書しかないと思い、日本の史書編纂を志す。1657年(明暦3年)、江戸駒籠(駒込)の藩邸に史書編纂所(のちの彰考館)を設置し、『大日本史』の編纂に着手した。儒学に基づく尊皇思想と史書編纂の考証を通して、足利幕府が擁立した北朝ではなく、吉野などを拠点とした南朝を皇統の正統とする史論に至った。当然それは南朝側武将への顕彰に繋がり、『太平記』によって英雄化された楠木正成はその一番の忠臣として挙げられた。 こうして、光圀は楠木正成の顕彰のための建碑を思いついたのである。 この墓碑創建には、立案者であり、出資者である光圀のほかに、重要な役割を果たす二人の人物がいる。一人は光圀の家臣、広く「助さん」として知られる佐々介三郎宗淳であり、もう一人は広厳寺の僧侶の千巖である。光圀の墓碑建立は実はこの二人の出会いにより、実現への運びをみるのである。 佐々宗淳(佐々十竹)は、もと京都妙心寺の僧侶で還俗したのち、延宝年間(1673-1681)に史臣として水戸藩に仕えることとなった。佐々宗淳は楠木正成墓碑建立の実務を総括することとなる。 楠木正成の墓の近くには広厳寺という、湊川神社創建まで長らく楠公墓を管理してきた臨済宗の寺院がある。かつては大伽藍を誇り、正成が自害したのも、広厳寺境内にあった無為庵という堂であったという。湊川合戦で広厳寺は焼亡し、荒れ果てたという。千巖はその中興の祖で諱を宗般といい、大和の達磨寺・伊勢の宝光院を経て、1674年(延宝2年)に広厳寺に来た。千巖が広厳寺に来たときには、広厳寺は荒廃しており、千巖はこの復興に尽力する。 徳川光圀は1680年(延宝8年)春より、南朝正統論を裏付ける史料を手に入れるため、史臣たちに全国を探索させた。1685年(貞享2年)、宗淳は楠公戦没の地の広厳寺を訪れた。ここで宗淳は千巖と会ったのである。ここで宗淳は徳川光圀に建碑の意向があることを伝えたと思われ、千巖もそれを強く請願したと思われる。 その5年後の1690年(元禄3年)12月17日に千巖は水戸藩士鵜飼練斎に宛てて建碑の催促の書簡を送っている。この間、水戸藩と広厳寺がどの程度連絡を取っていたのかは分からないが、5年たっても一向に建碑の動きがないので、しびれをきらしたのだろう。 千巖が送った先の催促の返信は1691年(元禄4年)2月23日に来た。再び鵜飼練斎に書簡を送り、同年3月23日に建碑することが決まったことを伝える知らせが届いた。これを受けて千巖は同年6月1日に建碑のことを尼崎藩主青山幸督に郡代を通して報告した。 1690年(元禄3年)10月に徳川光圀は幕府から致仕することを許され、ようやく楠公の建碑に取り掛かることが出来た。 1691年(元禄4年)3月23日に、千巖に建碑を行なうむねを伝え、1692年(元禄5年)4月23日、光圀は佐々宗淳に建碑を統轄実行することを命じた。 建碑を任された佐々宗淳は同年6月2日に広厳寺に到着した。まず基礎となる石壇造営にかかった。宗淳は同月3日、摂津住吉から石工の権三郎を招き、寸法の詳細を伝え、地震にも耐えられるように隙間無く作るように命じた。千巖は数度住吉まで石の色などを見に行っている。石壇を建てる下準備として敷地を広げるために同年5月に青山幸利の植えた梅松を切った。このうち、梅の木は広厳寺に植え替えられ、現在も同寺に存在するという。7月19日、住吉の石工たちが来て基礎の石壇の作業をはじめた。青山幸利の建てた五輪塔は地中に埋められた。石工35人は作業小屋を立てて作業を続け、8月6日に2段からなる基礎石壇が完成した。 次に本体である碑石の建立に取り掛かった。碑石は下部の亀の形をした白川石製の部分と和泉石製の板状の碑石からなる。これらは京都で作られ、8月10日、佐々宗淳が京都の石工5人と共に運んできた。12日、石碑を基礎の上に設置し、下部の亀石の下に霊鏡を安置した。霊鏡は直径4寸8分(15cm 弱)で裏には「忠臣橘姓楠氏諱正成之霊 元禄五年壬申某月某日 源朝臣光圀謹修墓碑」と鋳られている。この鏡は田中伊賀というものが作り、それを納める黒塗の箱は塗師の五兵衛というものが作った。それを白木の箱に納めて、基礎の石と亀石の間に納められた。13日に佐々宗淳は石工とともに京都に帰っていった。8月17日より碑の廻りに猪垣で囲み、10月9日に基本的な工事は終了した。10月2日には光圀より供養料が広厳寺に届き、それによって千巖は僧を雇い、斎会をした。10月22日に千巖は京都の水戸藩邸に赴き、佐々宗淳らに会い、建碑の礼状を渡した。 続いて碑石に文を刻む作業を始めた。建碑が始まって時点では碑文は決まっていなかったが、10月ごろに光圀の命で朱舜水の賛を刻むことに決まった。光圀の命では、適当な書師が見つからなければ、佐々宗淳の筆でもよいとしているが、宗淳は京都で岡村元春というものを見つけた。11 月19日に京都の岡村元春と石工6人が来て、元春が朱舜水の賛を碑石に写した。11月22日に碑文の陰刻を終えて、建碑は完了した。この建碑にかかった費用は金183両3分と銀8匁3分8厘であった。 碑の表には「嗚呼忠臣楠子之墓」と光圀の文字で彫られている。孔子が呉の季札の墓に刻んだ「嗚呼有呉延陵季子之墓」というのを参考に「忠臣」の文字を加えて光圀が自ら撰した。季札は、春秋時代の呉の王族。国の使いで徐国を通り過ぎたとき、徐の君が季札の剣を欲した。使いの途中なので、帰りに与えようとしたが、再び訪れたときには既に徐の君は死んでいた。そのため、剣をその墓前に捧げて帰ったという。光圀は、この忠節の美談を楠木正成を重ねたのだろう。 裏の碑文は前述の通り、朱舜水の文である。朱舜水は明の遺臣で1659年(万治2年)に日本に亡命し、水戸藩が抱えていた儒学者である。建碑の10年前の1682年(天和2年)に既に没している。この刻まれた文は生前の1670年(寛文10年)に描かれた狩野探幽の絵の賛として選された文であった。加賀藩主前田綱紀の依頼によって描かれたその絵は『太閤記』に有名な楠木正成正行親子の桜井駅での別れの場面を描いたものである。同文は『舜水先生文集』に収められ、同書より碑文として選ばれたことが誤字(もしくはその後の推敲)から分かる。実際の賛には「之死靡佗、卒之以身許国」とあった部分が、同書では「卒之以身許国、之死靡佗」とあり、碑文でも同様になっているのである。 忠孝著于天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廃忠孝則乱賊相尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈国士無双蒐其行事不可概見大抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任体士推誠是以謀無不中而戦無不克誓心天地金石不渝不為利回不為害■故能興復王室還於旧都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵搆殺国儲傾移鐘■功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥妬前庸臣専断而大将能立功於外者卒之以身許国之死靡佗観其臨終訓子従容就義託孤寄命言不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世々忠貞節孝萃乎一門盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者惜乎載筆者無所考信不能発掲其盛美大徳耳 右故河摂泉三州守贈正三位近衛中将楠公賛明徴士舜水朱之瑜字魯■之所選勤代碑文以垂不朽 ついで1695年(元禄8年)に、建碑とこれまでの楠公墓維持の功績に報い、これからの楠公碑の維持管理のためとして広厳寺の堂宇を造営した。同時に楠公墓碑が烏などによって汚されるのを恐れて、碑を覆う堂を建てている。同年5月24日ごろより作業を始め、11月25日に落成供養を行なっている。これらにかかった費用は実に1500両となる。 その後、尼崎藩では1751年(宝暦元年)尼崎藩主松平忠名が燈籠を寄進する。その後、松平忠興まで代々の藩主が寄進している。 また1759年(宝暦9年)、楠木正成の末裔と称する江戸の楠伝四郎なる者が、西国街道から墓に至る参道を作っている。楠伝四郎は付近の土地を買い上げ、広厳寺に寄進し、参道としたのである。その参道の規模は長さ65間(約110m)、幅2間(約3.6m)だったという。 1813年(文化10年)には、地元の大庄屋の平野本治というものが周辺の土地を買い上げて墓域を拡張した。平野本治は300坪を寄進し、周辺の有志・広厳寺からも寄進され、340坪となった。本治はまた松の木を自分の山より何本か植え替えて、墓域を整えた。 こうして、光圀の建碑のあとも度々整備され、楠公墓所は正成を崇拝するものたちの聖地となり、のちの湊川神社創建の基盤をなることになったのである。 徳川光圀による楠公墓碑 楠公の祭祀 [編集] 1735年(享保20年)3月21日、墓前では、楠公400年祭が行なわれ、1835年(天保6年)には墓前で500年祭が有志により行なわれている。このように光圀による墓碑建立以来、墓前では祭祀が行なわれるが、江戸時代後期になると、広く勤皇家の間で墓前とは限らない正成への祭祀が行なわれるようになる。 現在の湊川神社に繋がると思われる正成の国家による祭祀を提案したのは、会沢正志斎の『新論』『草偃和言』だろう。会沢正志斎は水戸藩の儒学者である。尊皇攘夷を唱え、中でも『新論』は維新志士たちの思想的根拠となり、討幕運動に大きな影響を与えたことでも有名である。 『新論』は1825年(文政8年)に書かれた政論書である。当初、水戸藩主徳川斉脩に献じられたが、斉脩は幕府を恐れて公表を禁じた。しかし、写本として広がることとなり、その思想は尊皇攘夷論とともに維新志士たちに広まっていった。 この『新論』下の「長計」の章で会沢正志斎は、国家に功績のあった諸王・諸臣を神として祀るべきだと主張している。古代の日本では、大鳥神社・宇都宮二荒山神社・鹿島神宮・香取神宮・春日大社・北野天満宮のように国家に功績のあった人物を神として祀っていたとし、しかし、現実にはそうした祭祀も行なわれなくなり遺憾であるとしている。この祭祀を復興して、忠孝心・敬祖心を起こし、神徳奉斎の念・敬神の念を生じさせれば、民衆もそれに感化されていくだろう、という。史実に即すると、これらの神社に対する会沢の理解は必ずしも妥当なものとはいえないが、この頃の儒学者の神社観が垣間見える。 この後の1834年(天保5年)秋に書かれた『草偃和言』では、年中行事を列挙し国民が祀るべき祭日を挙げて、その意義を解説している。『新論』での思想を受け継いで、祀るべき人物の祭祀を具体的に挙げている。古代の国家祭祀や釈奠とともに東照宮(徳川家康:2月12日・4月17日)・菅公(菅原道真:2月25日)・大織冠(藤原鎌足:10月16日)・天智天皇(12月3日)・義公(徳川光圀:12月6日)を挙げ、そして、5月25日には楠贈中将を挙げている。 ついで創建に直接の影響を与えたと思われるのは真木保臣(真木和泉)の『経緯愚説』である。 久留米の水天宮の祠官であった真木保臣は、『絵本楠公記』を読んで少年のときより正成を深く敬慕し、今楠公とも呼ばれたほどの正成崇拝者であった。1841年(天保12年)に真木は、水戸で学んだ木村三郎が久留米に持ち帰った会沢正志斎の『新論』を読み、感銘を受け1844年(天保15年/弘化元年)7月に水戸へ遊学して会沢正志斎に面談した。水戸に向かう途中には楠公墓に参拝している。 真木保臣の正成への崇敬心は確固たるもので、いつから始めたかは定かではないが、彼は毎年正成の命日には楠公祭祀(楠公祭)を行なっていた。史料で確認できる最初の事例は1847年(弘化4年)であるから、それ以前より行なっていたのだろう。幽閉の身になっても、吐血するほどの不調のときでも、欠かさずに楠公祭を行なっており、その崇敬の度合いを知ることができる。 真木保臣は会沢正志斎の思想を受け継ぎ、1859年(安政6年)5月に書かれた『経緯愚説』の「緯」の章で「古来の忠臣義士に神号を賜ひ、或贈官位、或其孫裔を禄する事」という一条を掲げている。 それによると、過去、外征に功績のあった崇神天皇、応神天皇、神功皇后の山陵に奉幣し、武内宿禰には神号を賜いて神社を建て、外冦と戦った藤原隆家、北条時宗、河野通有、菊池武房や、南北朝時代の義士である楠木正成、足助重範などに官位を贈り、墓がある場合は勅使を送って、このたびの攘夷に助力することを請う宣命を賜うのがよい。その子孫には、士族の場合は召してそのことを命じ、庶民に落ちてしまっている場合は士に召すか、恩賞を与えるかするとよいだろう、としている。 同書は参議野宮定功を通じて朝廷に献じられ、朝廷内部にも正成崇拝を広げる一助となったと思われる。 1862年(文久2年)、真木保臣は、寺田屋事件に関わる。真木保臣はこの年大坂で行なった楠公祭において、寺田屋事件で斬殺された有馬新七・田中謙助・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・森山新五左衛門・橋口伝蔵ら8柱の霊を慰霊のために正成とともに祭っている。後述するように有馬新七も真木保臣と同じく正成崇拝者であったことが知られ、1860年(万延元年)には薩摩に楠社を建てている。まさしく、有馬新七は楠木正成と同様に勤皇のために戦死したのであり、楠公祭において楠木正成に続く勤皇殉難者という位置付けで、祭祀されたのである。楠木正成を崇拝・祭祀した有馬は、正成のように殉国し、彼を祭った真木保臣ものちの禁門の変で自刃し殉国するわけだが、同じ目的に向かうものとして祭る側が祭られる側を理想とし、その目的の実現に祭神人物の力を借れるように願い、ときには祭神のように殉難することも厭わないと誓うという、この思想は靖国神社に受け継がれるのである。 翌1863年(文久3年)、八月十八日の政変によって三条実美を始めとする三条西季知、東久世通禧、沢宣嘉、四条隆謌、錦小路頼徳、壬生基礎修の七卿は京都を追われて、長州に向かう。三条実美らは、長州へ逃れる際に湊川の楠公墓碑を参拝しており、朝廷内部にも楠公崇拝が広まっていたことが分かる。 長州逃避後の1864年(元治1年)5月25日には、周防の湯田の旅舎で、楠公祭を行なっている。七卿落ちには長州藩に接近していた真木保臣も同行しており、この楠公祭にも参加している。もしくは真木が楠公祭を提案したのかもしれない。1866年(慶応2年)とその翌年の楠公祭は大宰府で行なった。七卿の一人である東久世通禧はのちに湊川神社創建に関与することとなる。 真木保臣の影響を受けてか、1864年(元治1年)には長州藩でも楠公祭を行なっている。長州藩主毛利敬親は明倫館を祭場として楠公祭を行なった。注目されるのは、このとき、真木の大坂での楠公祭と同様に藩に殉じた村田清風・吉田松陰・来島良蔵など17柱もあわせて祀っていることである。1865年(慶応1年)5月14日には佐甲但馬が楠公祭には殉難者の英霊を従祀することを上申。この上申に基づいて、その後、1869年(明治2年)に至るまで毎年長州藩では楠公祭に合わせて殉難者を祀るようになる。長州藩は殉難者の祭祀を早くから始めている。 ほかの各藩の楠公祭を見て行くと、石見の津和野藩では、1867年(慶応3年)に初めて楠公祭を行なった。藩主亀井茲監は養老館を祭場として、正成を始めとする元弘・建武に殉節した忠臣を祭った。1869年(明治2年)にはそれらの神霊を養老館の鎮守として鎮座させた。津和野藩は直接湊川神社創建には関わりないが、藩主亀井茲視と藩士福羽美静は、維新後、神祇官の要職についており、楠公祭の形式などに影響を及ぼしている可能性は高い。 佐賀藩では深江信渓が楠公親子決別の像を作り、早く1663年(寛文3年)に佐賀郡北原村の永明寺に祀ったと言われている。それを1816年(文化13年)に高伝寺梅林庵に移したという。1850年(嘉永3年)、枝吉神陽、相良宗左衛門、島義勇、大木喬任らが政治結社楠公義祭同盟を結成し、梅林庵で楠公祭を毎年行なった。これを知った家老鍋島安房は1854年(安政1年)には藩の鎮守竜造寺八幡宮の末社のひとつを取り払い、楠公社に改めた。 1860年(万延1年)2月には、前述したように薩摩藩で有馬新七が町田久成と協議して、町田家が1777年(安永6年)より祭祀していたと伝える楠公小祠を町田家の領地石谷へ移して、改めて小祠を立てた。この楠公社の鎮座式には大久保利通、岩下佐次右衛門、伊地知正治、有村治左衛門などが参列している。岩下方平(岩下佐次右衛門)はのちに湊川神社創建に関わる人物である。この楠公社は明治になって西郷隆盛が鹿児島の軍務局に遷座したが、廃藩置県による軍務局廃止後は西郷の私学校に祀られた。1876年(明治9年)にいたって、辺見十郎太の請願により宮之城に移されて、現存している。 尾張藩では1862年(文久2年)、国学者植松茂岳が藩許を得て、洲崎神社境内に楠公、物部守屋、和気清麻呂を祀る三霊神社を立てている。その後、名古屋の富士浅間神社(現:名古屋市中区大須2-17)の境内にうつされている。また、1865年(慶応1年)9月に丹羽佐一郎が私祀していた楠社を藩許を得て、名古屋の神明社(現:名古屋市東区徳川2)に遷座し境内社に祀った。1867年(慶応3年)、子の丹羽賢、田中不二麿、国枝松宇が社殿改築している。


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